第二十四話 「8月23日 夜」
第二十四話
「8月23日 夜」





時雨は何か心にもやを抱えたまま接客をこなした。
表面には出さないものの、朝の食堂や柚槻たちとの会話が脳裏に浮かんでは消えていった。
最後の客が帰る頃にはようやく遊郭も一段落し、山奥の静けさを取り戻す。
時雨は、いつものように精液やローションでべたつく身体をシャワールームで洗い流す。

「朝の咲也の見た?」
「夕方のニュースでも流れてたよ」
他の個室から男娼たちの話し声が聞こえてくる。
「咲也って見たことあると思ってたけど
 『ORIHARA』の御曹司だったんだね」
「『ORIHARA』のCMによく出てる子役かと思ってたよ」
内容は時雨の知ってることや初めて耳にすることだった。

咲也が、咲也の……などの言葉は今日だけでもう何十回も聞いた。
お客様からも聞かれた。
ただ横に首を振るだけしかできなかったのだが。
時雨はやや不機嫌そうに男娼たちの話を聞く。
男娼たちの話からすると咲也は帰っているらしい。
ふう、とため息をつきながらシャワーから上がり咲也の部屋へと足を運ぶ。
「咲也…?」

いつもなら時雨が障子越しに声をかければ、はにかんだ笑顔を浮かべながら部屋に招き入れてくれる咲也だったが今日はシンとして返事もない。

「……入るよ?」
もしかしたら部屋に誰もいないかもしれないが、一応断って障子を開く。
咲也は居た。
ただ、白のカッターシャツにスラックスのままで布団にぐったりとしている咲也だった。
寝ているのだろうか、咲也のそばにゆっくりと近付いていく。

いつもの咲也の部屋は伽羅や沈香、白檀などの香の香りに包まれ咲也の香りとなっているのだが、今日はドライクリーニング特有の匂いと どこかで卵などを洗い流してから帰ってきたのだろう知らないシャンプーの匂いがして、それだけで咲也がいつもと違うことを感じさせる。
精神的な疲れからだろうか着替える気力もなく布団にぐったりと横たわっていたが時雨の声が聞こえてどういう顔で会えばいいのかと悩んでいるうちに近くに時雨の気配を感じる。
「…ただいま 時雨…」

咲也の声は、いつもの控えめなものよりさらに小さく、消え入りそうな声だった。
頑張って笑顔を出そうとするも、ぎこちなく口角を上げるだけで、時雨もなんて声をかけていいのかわからない。
咲也の髪を撫でてこちらはできるだけ明るい顔で見つめてやる。

時雨の優しさと明るい笑顔が
『もしかしたらテレビを見ていないかもしれない』
『何も知らないままかもしれない』
そんな期待を抱くが、知っているからこそこうして髪を撫でてくれているのかとも思う。
でも自分の口からその話題を切り出すことができず黙ってその手に甘えるだけだった。

普段はこうして二人で居る時は雑談で笑いあったり、行為に及んでは快楽を貪りあったりするのだが、きーんと耳鳴りが聞こえそうなほどの静寂が佇む。
咲也から香る匂いはどこかのホテルの安っぽいシャンプーやボディーソープの匂いだけ。
いつもの柔らかな香りは無い。
しばらくして時雨は思い立ったように咲也をゆっくりと起こし。
「咲也、お風呂行こ」
と、咲也に話す。

「え… うん…」
ゆっくりと起こされながら時雨に腕を回して抱きつく。
いつもは二人同じ香りがするシャワー上がりの時雨の香りに気付き。
「…時雨 シャワー浴びてきたんじゃないの…?」

「気のせいだよ」
と、咲也の手を取りを立たせれば、手を引いて咲也の部屋の檜風呂に向かう。

時雨に手を引かれながら脱衣所に入る。
ノロノロとカッターシャツのボタンを外し服を脱いでいく。
肩や背中にズキズキと鈍い痛みが走る。
鏡を見ると薄く内出血して痣のようになっているのがわかる。
避けることなく喰らった林檎やスイカのぶつかった所だと分かる。
こんな身体を時雨に見せたくなくてカッターシャツの襟元をぎゅっと握って隠してしまう。
「……一人で…入っちゃ…ダメ?」

咲也は頑なに、素肌を晒すのを拒み普段なら有り得ないような言葉を口にする。
「ダメ」
と、一言で咲也に返して、咲也のカッターシャツのボタンを外して脱がせてやる。
やはりテレビで見たように、身体にはぶつけたような痣があったが気にする様子もなく、風呂場に入る。

「……」
時雨に脱がされてしまえば抵抗はせず。
時雨の後を追って風呂場に入り、空だった浴槽にお湯を張りながら身体にお湯をかけていく。

浴槽に湯を入れていくのを眺めながら咲也に対してゆっくりと口を開く。
咲也にとっては苦しい言葉かもしれないが、もはやこれは避けられない。
「咲也、テレビ見たよ」
湯をちゃぷちゃぷと触りながら時雨は話す。

時雨の一言にビクっと身をすくめる。
「……うん…」
シャワーを浴びたホテルのテレビで夕方のニュースを見て自分がどのように映されていたか見ていた咲也は時雨がどこまで知ってしまったのかを確かめるように答える。
「誰かから…聞いた? 僕のこと…」

「テレビからだいたいのことはわかった。
 あとは柚槻さんや春陽さん秋月さんから聞いたよ」
時雨はありのままに話す。
咲也が『ORIHARAグループ』の御曹司であること。
咲也の親父さんが自殺したこと。
とにかく自分が今日得た情報をできるだけ咲也に伝える。

「そか…」
あの3人なら悪い噂を吹き込むことはないだろうと少し安心して。
時雨の挙げていく自分の正体に一つずつ頷いて肯定して補足していく。
「『オリハラオリハラー♪』って社歌を流しながら
 ずらーっと色んな分野の
 『ORIHARA』って付いた会社名が出てくるCM…
 あの事故から自粛してるけど…
 見たことある?
 全部の会社にそれぞれ社長さんが居るけど…
 …グループの会長が父様だったんだ…」

「へぇ…よくわからないけど」
時雨はこの遊郭に来てからも、それ以前も外の世界に目を向けることは少なかった。
だからCMの話だって特に驚きはないし、時雨の聞きたいことは他にあった。
「咲也、咲也の父さんのことはいいんだ…」
時雨は静かに語りかける。

「ん… 時雨の質問には答えられるだけ答えるよ…
 今まで隠してきたようなもんだし…」
申し訳なさそうに時雨を見つめる。

じっと咲也みつめ、言い出そうとしては、言葉に詰まる。
この言葉が持つ意味は、咲也にとっておそらく重い。
「ひとつだけ……咲也のこと、教えて」

「…僕の…何を?」
時雨の問いの意味を確かめるように見つめ返す。

「咲也の…、遊郭に来る前の咲也のこと
 …それだけ」
じっと咲也の瞳を見つめ返し。

「…色々…ありすぎて…
 何から話したら…いいかな…」
自分の過去が今日の追悼式の事故から一変してしまったことを痛感してきた咲也は過去に思いを馳せるとそれまで流さなかった涙がじわっと浮かんでくる。

「辛かったら、いいんだ…」
必死に涙をこらえる咲也を見ると、おそらくはなにかしらの過去があったことを思わせる。
時雨はじっと咲也を見つめる。
見つめたまま待つ。

「ごめん…なさい…
 時雨は…自分の辛かったこと…
 話してくれたのに…
 僕は… …話したら…
 皆が知ってる『織原咲也』を…
 時雨に知られるのが…怖い…」
浴槽のふちをぎゅっと握った手がカタカタと震える。

「そっか…」
こくりと頷くと、ちょうど湯が溜まった浴槽に身体を浸ける。
一呼吸ついて
「咲也、おいで」
と、両手を伸ばす

「ん…」
チャプンと浴槽につかり
両手で迎えてくれる時雨にぎゅっと抱きつく。
 「ごめんなさい…
 少しずつ…話せるように…
 気持ちの整理…するから…」

「いいんだ…」
だだ一言だけ時雨は口を開き、咲也の身体を受け止める。
時雨にとって世間体や評価はまったく気にすることではない。
ただ、ありのままの咲也を知りたい。
それが今でなくとも、咲也が落ち着くまでは。

全てを話してもきっと時雨は変わらずこうして抱きしめてくれるだろう。
そう信じたい。
でも今まで咲也がそう思っていた世界はあの事故の日に崩壊した。
誰からも忌み嫌われ今日のように罵声を浴びてきた。
時雨を信じたい気持ちと今までの現実を比べるとどうしても過去に囚われ時雨を信じたい気持ちに自信がなくなる。
こんな気持ちをどう言葉にしていいか分からず咲也は震える腕で時雨にすがりつくしかない。

咲也は、僕のことが好きだと愛していると口にする。
だけどいざこういう時には口を閉ざし殻にこもってしまう。
時雨は咲也との距離を測りそこない見失ってしまうのではないかと思ってしまう。
だが今は咲也を抱きしめ安心させてやらなければ。
時雨は震える咲也を強く抱きしめ、頬にキスをしそれ以上は語らなかった。

「時雨… 時雨……」
優しくキスをくれる時雨。
精神的に疲れきっている身には優しさが沁みるようで。
堪えていた涙がポロポロと零れる。

「あらら、泣いちゃったら咲也の綺麗なお顔が台無しだっていつも言ってるでしょ?」
あやすように濡れた髪をかき撫でて、涙を掬い取る。

「ん… ごめん…なさ… ぅ…」
一度溢れてしまった涙は簡単には止まってくれなくて時雨の指先を何度も濡らす。

「んー困ったなあ」
苦笑いをしながら咲也の背中を撫でる。
時雨はふと咲也の手を取って浴槽から上がる。
浴場の椅子をカランと出してどうぞと座るように促す。

「ひっく… ん… グス」
涙を拭いながら浴槽から出て時雨の勧めてくれる檜の椅子に腰掛ける。

「咲也の泣き顔も、しんどそうな顔もお腹いっぱいだから」
桶で浴槽の湯を一掬い、咲也に頭から流して 。
「全部洗い流してあげるからスッキリして、これでおしまい。 いいね?」
背後から腕を回して耳元で語る。

「…うん… わかった…」
涙を堪えぎこちなく微笑んで見せて、鏡越しの時雨を見つめる。
「僕が…時雨の悪夢を預かったように…
 僕の涙は…時雨に洗い流してもらうね…」

よし、と咲也のぎこちない笑顔を見るなり頷いて、いつも咲也が使っているシャンプーを手に取りわしゃわしゃと咲也の髪を泡立てていく。
いつもの、咲也の香りがすっと香ればやはり気分が落ち着いてくる。

目を閉じて時雨の指が頭皮をマッサージするように洗ってくれるのを気持ちよさそうに感じていると涙もおさまってくる。

「そう、やっぱり咲也には涙は似合わない」
咲也の表情が和らぐのを見てニシシと笑い、髪を洗い終えれば桶で湯を流しすすぐ。
「さぁ、サッパリしたろ?」

「ん… ありがとう…時雨…」
今度はぎこちなさの抜けた爽やかな笑顔を時雨に向けて。
「甘えついでに…身体も洗ってもらおうかな…」
背後の時雨に寄りかかるように擦り寄り。

「ん、おっけー」
そう軽く応えて、柔らかなネットにボディーソープをたらし泡立てれば咲也の腕から丁寧に泡を伸ばすように洗っていく。
咲也の細いながらも適度に鍛えられた身体がなんとも美しい。

「んー… お客様にはするけど 自分が洗ってもらうのなんて何年ぶりだろう… なんか…くすぐったい」
照れたように微笑みながらも今日付いた痣を気にして自分でも泡を伸ばして隠すように。

咲也が気にして身体の痣を隠そうとするのは、もちろん触れないでおこう。
腕や背中を洗い、敏感な突起や股間に手を伸ばし洗う。
普段から弄り合っているのに、こういう状況下では恥ずかしいくなるのは何故だろうか。

「…んッ ぁ…」
行為ではないのに触れられてしまえばピクンと身体が震え声が漏れてしまう。
浴室に反響して恥ずかしくなって顔をそらす。

「くす…あはははははっ。
 さ、咲也ったら照れてるの?」
恥ずかしい空気が面白くて可笑しくて、吹き出してしまう時雨。
少し笑った後に身体の泡を湯で何回も洗い流していく。

「だってぇ… 勃ってもいないの触られるのとか…恥ずかしいよ…」
時雨の笑いに釣られてくすっと吹き出しながら答える。
ザブザブと豪快にお湯をかけてくる時雨にもういいよと笑いながら。

「いやぁ、咲也の恥ずかしいのかわからない顔が可笑しくってさあ」
と、笑いながら咲也の手を取り脱衣所に、向かう。
バスタオルで咲也の髪や身体を丁寧に拭けば、あとはドライヤーでサラサラと乾かす。

「なんか…今日の時雨はサービスいいなぁ… お客様にしてるみたい…」
時雨に身を委ね、ドライヤーの風に髪をなびかせながら微笑む。

「余計なことは考えなくていーの」
と、咲也をこちらにぐるんと向かせて、両頬をぺちっと軽く挟むように叩く。
「咲也、咲也はその顔が一番よく映えるんだ」
と、軽く唇にキスを施す。

「ん…っ」
突然のキスに少し驚いて。
「なんか…不思議。
 時雨が部屋に来るまでどん底の気分だったのに…
 こんな風に笑えるようになるのなんて…
 もっと時間がかかると思ってた。
 時雨が笑顔を別けてくれたみたい…
 ありがとう時雨 ちゅ」
時雨にお礼のキスを返す。

「あったりまえだよ、僕の笑顔は底なしだし」
満足げに冗談まじりにくだらないことを言ってみせる。
「さ、今日は…今日もかな…咲也の部屋で添い寝しようか」
と、鼻歌を歌いながら脱衣所を出る。

「うん…
 今晩は朝まで…一緒に寝てるからね…
 今朝は黙って出掛けて…
 心配したよね…ごめんなさい」
布団に潜りお互いの体温と香りを感じ幸せそうに微笑み。
「…ありがとう時雨
 大好きだよ……
 おやすみなさい」

「いいよ、でも次はちょっと怒るかもね」
と、こちらも咲也のぬくもりを感じつつ 。
「おやすみ咲也」
と、咲也の手を握りしめる。

「うん… 離さないでね…」
きゅっと手を握り返し、今日一日の疲れがどっと押し寄せすぐに眠りに落ちていく。




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