第十一話 「涙」

第十一話
「涙」





目覚めた時雨を見つめながら、なんと声をかければいいのか名前を呼び返してくれた時雨の手をぎゅっと握り。
とりあえず意識を取り戻してくれたことに安堵し深くため息をついて。
「時雨…」
両手で祈るように手を握っていた片手を離し、まだ少し濡れている時雨の髪を優しく撫でる。

しっとりと汗を感じるほどに手を握る咲也。
ぼんやりと咲也を眺めているうちに、意識が徐々にクリアになっていく。
覗き込むように見つめる瞳は、うるうると涙を耐えているように見えて。
感情を変えることなくゆっくりと身体を起こす。
至る所に鈍い痛みが走るものの耐えられないほどでもなかった。
しばらく俯き加減でぼーっと前を見て。

身体を起こす時雨を支えるように背中に手を回し、もう片方の手で時雨の口角を人差し指でなぞる。
口に近いため軟膏も塗れず絆創膏も貼れなかったが、長時間大きな屹立を咥えさせられていた口角は裂けて痛々しげに赤くなっている。
「…歯。痛いところない? 口をすすいだ時に一応確認したけど… 折れてる歯は無さそうだったけど… もしかしたら歯茎の中で折れてるかも…しれないし…」

心配そうに背中に手を添え、ゆっくり口角をなぞる指を軽く払い除ける。
「大丈夫だから…」
感情のこもらない声、咲也の方を見ることなく深くため息を付く。
「なんで…来たの?」
ゆっくりと吐き出すように口を開く。
気を失う前、咲也の姿がぼんやりと見えた。
不良に立ち向かい、そして戻ってくる姿を。
それが時雨の脳裏から離れずにいた。

払い除けられた手を気にせず、時雨を労る言葉を続ける。
「…そか よかった じゃあ…」
咲也より時雨との付き合いの長い男娼仲間からの差し入れは、時雨の好みを知る尽くしていて甘いものであふれている。
「ミネラルウォーターとカルピスウォーターあるけど… どっちがいい?」
両手にペットボトルを持って時雨に尋ねてから。
「…なんでって…、…言われても…」
俯いて言葉を詰まらせ…
「…身体が勝手に動いてた… 怒りに任せて… …時雨を助けたくて…」
と続ける。

布団の周りを見れば、チョコやケーキ、様々な甘味やお菓子が並べられている。
しかし、今は少しも喉を通る気がするはずもない。
「いらない」
と一言で済まして。
咲也の方に顔を向ける。
「勝手なこと…しないでよ。 僕の『お客様』だったんだから。 自分が何したか分かってるの…?」
元気のない、弱い声であったが明らかに咲也に対する抗議の念が含まれていて。

時雨の言葉に更に俯き…
「…でも… 旦那様も『もう接客じゃない』って… 止めに入ってたし… …僕が行かなくても… 多分 用心棒さんたちが…止めに行ったと思う… …余計なことして…ごめんなさい…」
掠れた時雨の声に心配そうに見つめて。
「ね… 水分だけでも…摂って…? 喉…痛いでしょ?」

差し出されるペットボトルを取る気配もなく、じっと淀んだ瞳で咲也を見る。
「僕の取った『お客様』は最後まで相手をするし、誰にも邪魔をさせない。 いい加減僕のことは放っといて…」
なげやりに言葉を咲也に投げつける時雨。
諦めにも似た笑みを浮かべながら呟く。
「穢れた体だから… あんなにされても気持ちいいんだから…」

俯き正座した両膝の上でぐっと握り締める手の甲にポツポツと水滴が滴る。
時雨の看病を最優先としていたため濡れた半襦袢と袴のままで…
俯いて滴るその水滴は髪から滴る水なのか涙なのか判別がつかない。
しばらくの間をおいて、やっと顔を上げると静かな声で。
「…時雨の… ばか…」
その言葉と同時に時雨の頬をパンッと張手する。

しばらくの静寂の後に、乾いた音が部屋に響き渡る。
時雨は何が起こったのかわからずに思考を停止してしまう。
咲也にはたかれたと認識するまでに少しばかりの時間がかかり、はたかれた方の頬を抑える。
あまりに突然の出来事に言葉がでず、目を見開いたままで

時雨を叩いた右手を左手でぎゅっと握り…
「ロビーで最初に腕を掴まれてた子や、集まってた皆を助けたのは時雨だけど 『他の子なら壊されかねないから』なんて言っておいて 時雨が…っ 時雨の方が壊れやすいんだよっ あんな奴ら『お客様』だなんて思ってないくせにっ もっと自分を大事にしてよ…!」
そこまで一気にまくし立てると、耐えかねた涙がボロボロと溢れてくる。

普段の穏やかで優しげな雰囲気とは違い、見たことのない剣幕で時雨につめよる咲也に、ぽかんと口を開けたまま固まって言葉を聞き入れるしかない時雨。
咲也は一気に言葉を吐き出すと溜め込んでいたのだろう大粒の涙をポタポタと落とす。
その姿に『ごめん…』と反射的に言うことしかできなくて。

「そんなに自分を『穢れてる』って言うなら、その時雨に『教育』された僕はどうなるのっ? 僕があいつらの相手したら、時雨は何とも思わないっ?」
そう言って時雨の浴衣の前をバッと開いて傷だらけの身体を晒し。
「…こんな風に…されるなんて… 僕が代わった方が まだ辛くないよ… こんな……に……」
浴衣の襟を掴んだまま時雨の胸に顔を押し付けるように前屈みになって、手をブルブルと震わせながら声を殺して涙だけを流し続ける。

咲也は自らの想いを次々に吐き出して、とうとう時雨の胸で言葉を詰まらせて泣き崩れる。
ふと露出した肌を見ると、青あざや赤く腫れて傷ついているのが目立つ。
ガーゼや包帯で、しっかりと手当てしてくれたのは咲也なのだろう。
もし咲也が止めなかったら『この程度』で済んではいまい。
時雨の淀んだ思考は徐々に晴れていく。

時雨の胸でひっくひっくと泣き声を堪えながら。
「…さっきは… 『余計なことして ごめんなさい』って 謝ったけど… やっぱり取り消す… 時雨の『お客様』だろうが…なんだろうが… 時雨にこんなことする奴を…放ってなんか居られない… こんな時雨は…もう見たくないし… それに… お父さんのこと…思い出しちゃったんでしょう…? 時雨自身だって『やめろ』って…言ってた… やっぱりあんなの『接客』じゃない…よ…」
時雨の胸を涙で濡らしながら、自分の行動を間違ってはいないと思っていることを伝える。

「もういい…もういいから、泣かないでよ…」
咲也は誰のために泣いているのだろう。
他ならぬ時雨の為に泣いている。
咲也にとって、時雨の存在がこの遊廓でのたった一本の支えだ。
心底時雨のことを好いているからこそ、目の前で、なぶりものにされるのを放っては置けないのだろう。
フラッシュバックを引き起こして、半狂乱に陥った時雨を救いだすのは、咲也にとって何よりも優先すべきことだっただろう。
時雨は痛む体で、できるだけ強く咲也を抱きしめる。

「時雨…」
抱きしめられて見上げれば、淀んでいた瞳がいつもの綺麗な碧く透き通るように戻っていて。
自暴自棄気味だった口調もいつもの優しい声に戻っていた。
安心したのか耐えていた分、更に涙を零し時雨を抱き返そうとして自分がびしょ濡れのままなことに気づいて、軽く時雨の胸を押して離れる。
「ごめん… 濡れてるから…傷に…しみるでしょ…?」

咲也は目を真っ赤にして、時雨を見るなりまた泣き出してしまう。
そして気遣って離れようとする体を引き寄せて抱きしめる。
あざが痛むとか、傷がしみるとか関係なかった。
今、自分が傷ついて悲しんでくれている人がいる。
自分の所為で心を痛めている人がいる。
これ以上苦しめてどうなるものか。
くしゃくしゃと濡れた髪を撫でる。
「ごめん、ありがと」
気持ちがぐるぐる混み合って、今はその言葉しか出なかった

「ふ…ぅ… 時雨ぇ…」
濡れることも構わず抱きしめてくれる時雨の背中に腕を回して抱き返す。
時雨の肩に顔を乗せ泣きじゃくる。
「…時雨 僕に抱きしめられてて…平気…? 怖く…ない?」
と、耳元で尋ねる。
あんな格闘技を見せてしまったこともあるが、『対人接触恐怖症』になっていたら、この仕事では致命的だと案じながら。

安心しきって泣きじゃくる咲也を少し困ったように微笑んで背中をさすってあげる。
「怖くなんかあるもんか…」
一層ぎゅうと抱きしめる。
咲也の涙を指ですくってあげて…
「僕のために泣くのはもう止めて…僕までもらい泣きしちゃいそう…」
あふれでる咲也の涙を親指の腹で拭く。

「ん…」
時雨に涙をすくわれ泣き笑いを浮かべて見せて、時雨だって泣いていいのに…と思いながらも、男娼として気高く不良たちの相手をした時雨を称えるように贈られた差し入れの山に目をやって。
「時雨…落ち着いたみたいだから… 僕も着替えてくるね… その間ちゃんと水分とか摂ってて…?」
時雨の背中から手を離し涙を拭って身体を起こす。

なんとか笑おうと、咲也は笑顔を作るも情けない笑顔になってしまい、笑ってしまう時雨。
咲也は身を起こすと濡れた服を着替えにたたっと一旦部屋を後にする。
時雨は脇に置いてあるペットボトルを手にして喉を潤す。
ぼんやり咲也のことを考えていると、しばらくして足音が聞こえてきて。

温泉の手前の脱衣所に入って濡れた衣服を脱いで、時雨に着せたのと同じパジャマ代わりの浴衣に着替える。
気を緩めるとまだ涙が溢れそうになるのを洗面台の冷たい水で顔を洗って落ち着かせる。
タオルを持って時雨れの枕元に戻り、濡れた肌をタオルで拭いて、開いた浴衣の襟を整える。
「…時雨」
今度は自分から時雨に抱きついて。
「…良かった… いつもの時雨に戻ってくれて…。 この二週間…ずっと気になってたから… 僕に助けられたり…看病されるの…嫌かなって…」
咲也の方もいつものようなポツポツと呟くような口調に戻っていて。

着替え終えた咲也は、時雨を見るなり抱きついてくる。
時雨はそれに応えて優しく体を寄せる。
「咲也…ごめん。訳もないのに、咲也のこと避けてた。 あの日以来、ずっと頭の中がもやもやしてて、誰とも話したくなくて… 咲也が心配するのも…ちょっと嫌だなって感じてた…」
耳元で呟くようにして話す時雨。
「気持ち良いことだけしてたら、モヤモヤも抜けると思ってた。だから…」
言葉を詰まらせて、苦しそうな表情をみせる。

時雨に抱きついたままフルフルと首を横に振って。
「あの時…僕が『全部』を受け止めてあげられなかったから… 時雨が…こんな無茶するまで…追い詰めちゃって…ごめんなさい… 今はまだ…疲れてるだろうから…ゆっくり…休んで? 落ち着いたら…また…話して 今度は…時雨の『全部』を受け止めるから… もう逃げないから… 時雨の辛さを支えていくから… ずっと…」
時雨を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めて。
「時雨は全然『穢れ』てなんかないよ… こんなにされても…時雨の心は… 壊れるギリギリだったかもしれないけど… 元に戻れる強さを持ってる… すごいことだと思うよ…」

「僕にもっと…誰かを信じる力があったら… きっと咲也を傷付けずに済んだ… だから…もう一度だけ…咲也のこと信じてみる…」
咲也のぬくもりを感じながら、ゆっくりと決意して…
「うん、ちょっと安心したら…眠たくなってきた…なんでだろ」
心の重りがとれてスッキリしたのか、急にまぶたが重くなってくる…
「あと…ちょっとだけ」
咲也の首筋に顔をうずめるようにして。

「ん…」
時雨を抱きしめたままゆっくり布団に身体を倒す。
「ずっと抱きしめてるから… ゆっくり眠って…?」
時雨に腕枕して添い寝するように布団に入って。

柔らかな布団に咲也と二人寄り添えば、ぬくもりと、胸を満たすなにかが心地よい。
「咲也…」
そう呟くと…時雨は深い眠りに落ちていく。
その顔はとても穏やかで…

「…おやすみなさい… 時雨… 頬…打ってごめんね…」
穏やかな寝顔に微笑みかけ、久しぶりに感じる時雨の体温や香りを包み込むように抱きしめて。
咲也もこの二週間あまり眠れずに居たので、疲労や安堵が睡魔となって時雨とともに眠りに落ちていく…





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