番外編 第話
「」




元咲也の部屋で机に向かう咲良と、咲良を背後から抱きしめ宿題を見てやっている時雨。
時雨が教えるまでもなくスラスラと問題を解いていく咲良に、時雨は特にすることもなく咲良の髪をサラサラと撫でながらノートを覗いていた。

「時雨 ちょっといいか?」
障子の向こうから柚槻の声。
「ん」
時雨が咲良のノートから目からそらさずにそっけなく答える。
カラリと障子を開けるが部屋に入る様子はなくその場から話しかけてくる柚槻も、時雨のいつもの態度だと気にしていないようだ。
「来週来るお客なんだが、この和室に泊まりたいらしい
 清掃業者を入れて生活臭消して客間として整えたいんで、悪いが明日にでも一時的に別棟の部屋に移ってくれ」
「分かった」
短く答える時雨の代わりに咲良が柚槻の方を見て詳細を聞く。
「私物の移動だけでいいの?
 箪笥とかは? 中身だけ持って出たほうがいい?」
流石にこういうことには咲良の方が気が回るなっと感心しながら柚槻が答える。
「貴重品だけでいい
 箪笥や脱衣所に置いてあるものは中身ごと業者に運ばせる」
「はーい」
明るく返事をすると用件はそれだけだと言う風に無言で手を振って背中を向け障子を閉めようとする柚槻に、ふと気がついたことを聞いてみる咲良。
「柚ちゃん この和室に泊りたいってことは元僕のお客様? 誰 誰ー?」
手に持っていた黒い革張りの顧客名簿をパタンと閉じて柚槻が振り返る。
「…咲良 『影楼の顧客名簿』は?」
「『国家機密』!」
「分かればよろしい」
ニッと笑って今度こそ障子を閉じて、柚槻が廊下を遠ざかっていく足音が残る。
「誰だろう? 覚えてるお客様かなぁ?」
自分を抱く時雨を首を反らして見上げる。
「だとしても今の咲良の姿を見せるわけにはいかないだろ?」
まさか15年前と同じ姿の咲良を見たら卒倒してしまうだろう。
「そっか…」
時雨の言葉にうんうんと頷く。
「ほら そんなことより宿題」
咲良の前髪をサラっと撫であげて白い額に軽く口付ける。
「…うん」
照れて時雨の方を見上げられなくて俯く。
カリカリとシャーペンの音だけが夕暮れの部屋に聞こえる程の静寂。
咲良は宿題に向かっているうちに集中していく。
時雨はそんな空気を、腕の中の咲良のぬくもりを居心地が良いと気に入っていた。

翌日。
咲良が学校から帰ってくるともう清掃業者が撤収の準備をしていた。
「おかえり 咲良ちゃんー」
「お腹減ったぁ おやつ おやつぅ」
と、玄関で迎えてくれる春陽と秋月もいつもどおりだ。
「ちょっと待ってね 鞄置いて 時雨も呼んでくるから」
咲良が影楼にたどり着くまでの15年間、あの甘党の権化だった時雨が甘いものを絶っていたのを知っているので、咲良は出来るだけ自分の作ったお菓子を食べさせたくて仕方ないのだ。
―――15年間を埋めるように…
「あ… 僕たちの部屋どこになったか知ってる?
 時雨 どこに居るんだろ?」
「別棟の一番北の部屋ー」
「南側も空いてるのにねぇ」
ニヤニヤ笑いながら咲良を見ている二人に、なんとなく時雨がその部屋を選んだ理由が分かる気がして少し赤くなってしまう。
「ありがとう」
と、短くお礼を言って別棟の建物に向かう。

部屋の前に着くと元咲也の部屋とは違い重厚な木の扉。
コンコンとノックしてみるとすぐに扉が開かれ時雨が迎えてくれる。
「ただいま時雨」
「おかえり咲良」
時雨がひょいっと咲良の脇に両手を差し込みフワリと抱き上げると目線が同じになる。
「…ちゅ」
と、啄むようなキスをどちらからともなく交わす。
15年前と変わらず優しく微笑む時雨と、毎日の挨拶だと分かっていても恥ずかしそうに瞳を伏せる咲良。
その気恥ずかしい気分を誤魔化すかのように
「あの… おやつ作るから… 食堂行こう?」
と、時雨に降ろしてもらい手を引く。
「うん 今日は何?」
咲良と手を繋いで廊下を食堂に向かって歩きながら時雨が問う。
「えっと… 皆で食べるから…何か量がいっぱいのがいいかなぁ」
「ん 咲良が作ってくれるのだったら俺は何でもいい」
「もう たまにはリクエストしてよー
 メニュー考えるのが一番大変なんだから」
そんな会話をしながら食堂に着くと早くも春陽と秋月が待っていた。
「じゃぁ 作るからちょっと待っててね」
時雨の手をパッと離して台所に入る。
『何度も触れてるけど…
 やっぱり今の時雨の手って大きいなぁ』
と、繋いでいた手に残るぬくもりをじっと見つめてから手を洗いおやつを作る準備を始める。

「わぁー 何この大きいメロンパンー」
「顔ぐらいあるんじゃないかなぁ」
と、焼き立てのメロンパンを両手に持ってはしゃぐ春陽と秋月。
「ん」
と、相変わらずそっけない時雨。
「時雨のだけ甘いの隠してあるからね」
と、こっそり時雨に耳打ちすると今までの無表情が嬉しそうに微笑むのが分かる。
「ああっ よく見たら時雨のだけチョコチップがー!」
「何いぃ!」
「うるさいドッペンゲルガー 黙って食え」
と、二人を両手でコツンと叩く柚槻。
「痛ったーい」
と、二人が声を揃える。
時雨の横に座ってその様子を見ながら
『変わらないものもあるんだなぁ』
と、思う咲良だった。

コーヒーと一緒におやつを楽しんでいると裏の渓谷から
「きゅぅ」
と、お父さんの鳴き声が聞こえる。
「台所の換気扇 裏に排気されるからお父さんもお腹減っちゃったんじゃないー?」
「犬ってパン食べるのぉ?」
「塩分と糖分が多すぎるからメロンパンはダメですね
 食パンをちょっとくらいなら大丈夫らしいけど
 お父さんももう15歳 人間の歳で言ったら75歳過ぎだし…」
自分の分のメロンパンを食べながら咲也が答える。
「ええーっ そんな歳なのー?」
「全然衰えてないよぉ? ねぇ 柚ちゃん」
驚く春陽と、柚槻に同意を求める秋月。
「そうか… どうりで最近散歩の時へたると思った」
「散歩って…相変わらず 柚ちゃんのジョギング相手してるの?」
柚槻の答えに恐る恐る聞いてみる咲良。
「おう 未だに峠を越え……」
そこまで言ってギクリとする柚槻。
「足が悪いのにやめてくださいーーーっ」
プンプン怒る咲良と逃げ腰の柚槻、それを笑う春陽と秋月。
そんな空気も楽しくて時雨は気に入っていた。
―――15年間 皆どこかに咲也のことを思って心から笑うようなことがなかったから…

おやつを終え、お父さんのエサを用意して裏口から出る咲良。
咲良の服からパンの焼ける香ばしい香りがするのか抱きしめるとクンクンと匂いを嗅いでいるのがわかる。
「お父さん パン好きなの?」
「きゅぅ」
まだ影楼が遊郭だった頃、自分のお客様が何日か泊まり込むような日は世話をするどころか一緒に遊んであげることも出来なかったことを思い出す。
そんな時は時間の空いている子たちがエサをあげてくれたり遊び相手になってくれたり、あの柚ちゃんまでジョギングと称して散歩に連れて行ってくれていたこと。
「皆に可愛がってもらったよねぇ…」
15歳の少年には似合わぬしみじみとした表情でお父さんを見つめる。
ガツガツとエサを食べていたお父さんが
「きゅぅ」
と、鳴いて犬小屋に入ってゴソゴソと何かしている。
しばらく待っていると犬小屋の奥から使い込んで塗装の剥がれたヨーヨーを口に咥えて出てくる。
「…懐かしいね それ…
 久しぶりに遊ぼうか?」
お父さんの口からそれを受け取ると
「きゅぅきゅぅ」
と、嬉しそうに尻尾を振る。

頑丈な犬小屋は古びたといえ咲良が屋根に腰掛けても軋む音すらたてない。
「ほーら 取ってごらん」
咲也がしていたようにヨーヨーの紐を持ってブラブラと左右に揺らし、お父さんがそれを咥えそうになった時ヒョイっと上に引っ張ってお父さんをジャンプさせる遊び。
「きゅぅきゅぅ」
と、鳴きながら咥えようとすると尻尾の方に行ってしまうヨーヨーを追いかけグルグルと回るお父さんの姿は15年前と変わらない。
お父さんが噛み付こうとした瞬間紐を上に引っ張ると、バッとお父さんがジャンプした。
「えええ!?」
予想外の高さに驚く咲良を他所目にヨーヨーを空中でキャッチするお父さん。
「…びっくりしたぁ…」
ヨーヨーを咥えて『もっと もっと』と、言うように咲良を見上げるお父さんの目は子犬の頃と変わらないのに。
「そうだよね お父さんも大きくなったんだもんね」
犬小屋から立ち上がり再び遊びを続けるが、お父さんのジャンプはそれでもヨーヨーを捕まえてしまう。
「うーん…」
咲良は自分も走り回ってお父さんと追いかけっこでもしているかのようにヨーヨーを持ってあっちへ行ったりこっちへ行ったり。
「きゅぅきゅぅ」
と、疲れも見せずに付いて来てはジャンプで咲良の持つヨーヨーを捕まえてしまうお父さん。

「ぜー はー ぜー はー」
先にバテたのはもちろん咲良のほう。
渓谷の桜の木の下に倒れこんで乱れた息を整える。
「きゅぅ」
そんな咲良の横にお座りをして見つめているお父さん。
『柚ちゃんのジョギング相手だっただけある…
 なにあのジャンプ力… このスタミナ…』
老犬とは思えないお父さんを撫でようと寝転がったまま腕を伸ばした、その瞬間。
ドクンッと咲良の心臓が跳ねるような痛み。
「…く… ぁ…」
肢体を伸ばして寝転がっていた咲良が身体を丸める。
先程までの運動で息切れしたのとは違う息遣いに気づいたのか
「きゅぅ」
と、お父さんが咲良の額に浮かんだ冷や汗を舐める。
「はっ はぁっ はぁっ は…」
いつも発作の時はこうやって心臓を押さえつけるように両手を胸に当てて身体を丸めて我慢してきた。
今回もこうしていればじきに治まるだろう。
それまでの間がとても長く感じるのだけど…
苦しさを紛らわせるためそんなことを考えていると
「きゅぅ」
と、お父さんが一声鳴いてロビーの方へ走っていく。
「だめ…っ はっ お父さん…はぁっ 行っちゃだめ… はぁっ」
制止する咲良の声にお父さんが戻ってくる。
「はぁ だめ… 皆に はっ 心配かけちゃう… ふぅ はぁ…」
「きゅぅ…」
元気がなさそうに鳴くお父さんを抱きしめる。
「大丈夫… このまま… はぁ はぁ…」
「きゅぅきゅぅ…」
ぎゅっとお父さんにしがみつくように抱いて目を閉じて苦しい時間を耐える。

どのくらい時間が経ったのだろう。
苦痛に耐えていた咲良にはとても長く感じていたが、5分と経っていないだろう。
「―――咲良 咲良」
不意に時雨の声がする。
ぎゅっと閉じていた目を開けるとすぐ頭上に時雨の顔があった。
「大丈夫? 発作?」
だいぶ落ち着いてきたとはいえまだ呼吸が苦しい。
「時雨… 何で… はぁ…」
「さっきまで咲良の遊んでる声してたのに
 お父さんの鳴き声だけになったから
 心配になって来てみた」
ふぅっとため息をこぼす時雨。
「よく…聞こえたね… お父さん 吠えてないのに… は…ぁ」
「こういう時は吠えればいいのにね」
咲良の腕からお父さんを抱き上げてグリグリと両頬の肉を動かすかのように撫でる。
「ほら 捕まって」
咲良の身体を軽々と抱き上げて時雨の首に腕を回すように促すと影楼の裏口へ向かう。
『ありがとう お父さん』
咲良と時雨の姿が見えなくなるまで、じっと座っているお父さんを時雨の肩越しに見つめる。

大人組の一番北の部屋に着くと、大きなベットにそっと横に寝かされる。
その横に寝そべって咲良に腕枕をしながら咲良を心配そうに見つめる時雨。
「もう… 大丈夫」
はぁーっと深呼吸する咲良に時雨がぎゅっと抱きついてくる。
「時雨?」
「…また… 居なくなっちゃうかと…」
咲良の肩に顔をうずめている時雨がどんな表情をしているのか咲良はもう分かっているつもりだ。
時雨の背中をそっと撫でるように抱き返す。
「時雨 ここに居るよ だから離さないで…」
「…咲良…」
肩から顔を上げた時雨が咲良に口付ける。
挨拶のキスではない濃厚なキス。
それはいつもの夜の始まりだった。




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