第三十八話 「花宵桜」
第三十八話
「花宵桜」





うららかな春の宵。
接客を終え火照る身体をシャワーで流し清めた咲也が部屋に戻る。
シャワーを浴びに行っている間に清掃され接客の乱れが整えられ清潔が保たれた部屋。
それでも漂う空気がまだ先ほどの熱を残しているように感じ夜風を通そうと障子を開け裏の小さな渓谷に面した窓を開ける。
さぁっと頬を撫でる涼風。
2階の咲也の部屋の目の前に咲き誇る満開の桜の花に目を細める。
「今年も綺麗に咲いたね」
時雨の接客が終わったら今年もお花見に誘おう。

咲也と一緒に花見をした時から早くも時はめぐり、夜の寒さも和らぎ桜も爛漫にその色を惜しげもなくさらしている。
最後の接客が終わるころには暗闇の中で、それでもなお色艶あせぬ桜が風に吹かれてざわめいている。
時雨は身体の汚れを落として軽装に着替えればパタパタと廊下を小走り。
「咲也ー」
と、部屋の前で呼んでみる。

「お疲れ様時雨」
時雨をねぎらういつもの挨拶で時雨を部屋に招き入れる。
パタリと障子を閉めて二人きりの空間になると
するっと甘えるように時雨と抱きしめあい軽く唇を重ねる。
行為になだれこむためのものではなく 接客の間閉じ込めていた心をお互いに確かめ合うような甘やかな瞬間。
蒼い瞳を柔らかに細めて咲也を見つめる時雨と、一年以上も、もっと激しい行為を続けてきたというのに恥ずかしそうに目を伏せそっとはにかむ咲也。
二人は今 蜜月の絶頂にあるように思えた。
名残を惜しむようでもなく自然に身体を離し。
「…今年も和服で行く?」

柔らかな咲也の身体を包み込むように抱きしめればいつものシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
するりと髪の毛をすいて口づけ、お互いの愛を確かめ合えば心がふわりと浮くようななんとも心地のよい感覚に包まれる。
咲也が時雨を見つめる瞳をふとうつむきがちにそらせば、時雨はにししと笑いこつんと額を咲也にあてる。
いつまで経っても変わらない咲也のそぶりが時雨には今でも新鮮に感じられた。
「そーだね、動きやすいのでお願い。
 もうそんなに寒くなさそうだから」

「今年は昼間ぽかぽかしてるし…
 夜の風も気持ちいいよね」
和箪笥の中から着物を選ぶふりをしながら、今日の花見のために時雨に用意した真新しい着物をサラッと広げる。
時雨を背中から抱きしめるように腕を回しシャツを脱がせ着物に袖を通させ着付けていく。
帯をきつくないように締めてトンっと軽く背中を叩く。
「はい。どこか動きにくい?」

「ん、いいねこれ」
糊のきいた着物を咲也に着させてもらえれば、先程までのきっちりとした印象から一転、肌蹴ている鎖骨や時折見せる太ももが時雨を艶やかに映えさせている。
「ん、涼しいしちょうどいいかな」
と、時雨は袖をひらひらと振る。

「ん… よく似合ってる…」
お花見に外に出てしまえば薄闇の中になってしまう。
部屋を出る前に時雨の和服姿を
―――自分の選んだ和服の時雨を
それとはバレないようによく見ておく。
「さて 台所に行こう。
 今年はちゃんと和菓子いっぱい用意してもらったよ。
 時雨もまた美味しいお酒隠してあるんでしょ?」
廊下に出る障子を開くと風の通り道ができて和服姿の二人を見送るように
ザァ…っと咲也の部屋の窓から花びらを乗せた風が舞い込む。

ふわりと風が髪を煽り、桜のほのかな香りが駆け抜けていく。
肌をなでる心地よさとともに咲也の部屋を後にする。
「えへ、そだね、まあいつもと変わらないような甘ーいやつだけどねー」
と、微笑みながら台所へと向かう。

「甘いお酒じゃないと僕もまだ飲めないから」
時雨に微笑みを返して。
昨年とは違いもう使い慣れた台所に着くと
饅頭や餅菓子、羊羹、金団、練切など色とりどりの目にも楽しい茶道用のお菓子を重箱に詰め
時雨のお酒を楽しむための切子の盃を手に用意はすぐに整う。

「あっれー、どこやったかなー」
ごそごそと台所の下の収納スペースに潜りこんで取っておきのお酒を探す時雨。
あれも違う、これも違うと中から調味料や調理器具を出していくうちに
ついには止められていたはずのお菓子がごろごろ出てくる始末。
「あー あった… いだっ!」
ようやく見つけた時雨はどこかに頭をぶつけたのか涙目になりながら木箱を取り出す。
「痛ったー… 咲也見つかったよー」

「うわぁ また高そうな…」
涙目の時雨の頭を撫でてあげながら発掘された一升の日本酒瓶が入っているであろう木箱を眺める。
「外で開けるのは大変そうだから…
 瓶を取り出してから行こうか」
どうやって木箱を開けるのか知らない咲也は時雨に問いかける。

ことんと木箱を床に置いて木箱を封じている紐をほどきシールもはがす。
こつこつと木箱のふちを叩いてぽこんと言う音とともに透明な一升瓶を取り出してみる。
薄く桜色に染まった、透き通るような液体が時雨の瞳に反射している。
「これ、多分高いんだろうなー」
と、そっけなく呟いて。
「さ、いこうか咲也」

慣れた手つきで酒の封を解いていく時雨の後ろ姿とその白い指先の動きを見つめる。
先ほどのように時雨を正面からだとこんな風にただじっと見つめていることが出来なくてつい目を伏せてしまう咲也にとっては
時雨の後ろを着いていって背中を見つめたり
その指を絡めるように手を引いてもらう時の方が時雨を見つめていられて落ち着くような…
ぼんやりそんなことを思っていると時雨が振り向く。
目があったその時、自分がどんな目で時雨を見つめていたか悟られてしまったような気恥かしさに頷く動作に紛れて目を伏せる。

「? んー 咲也?」
どこかもの寂しげな咲也の表情に首をかしげて歩き出そうとすると、ふと立ち止まり咲也のほうを見やる。
咲也はびくっと驚いた表情でまた目を伏せてしまう。
時雨は
「んー…?」
と、首を傾げて唸ると、すっと手を咲也のほうに差し伸べる。
「あーいや、なんかさ… なんとなく」
時雨もどこだか照れくさそうにして
「行こ」
と、一言だけ告げる。

「…ん」
時雨の差し伸べてくれる手がいつも嬉しかった。
そっと触れるとしっかりと握り返してくれる手にいつまでもついて行こうと握り返す。
そんな無言のやり取りが嬉しい。
時雨に手を引かれ裏口から渓谷に出て咲也の部屋から見えた桜の木の下に到着する。
夜風に吹かれて音もなく花びらを散らす桜を見上げる。
「今年も綺麗に咲いたね…」
部屋で独り桜に向けた言葉を今度は時雨と共有する。
花見の席を用意する前に二人で手を握ったまま立ちすくすかのようにしばらく無言で花を見上げる。

「そうだね、いつもここの桜は綺麗に咲いてくれてる。
もうここの皆もこれを楽しみにしてたりするしね」
咲也と一緒に夜桜を見上げてしみじみと語る時雨。
「ここの桜はもう何百年もここに立ってるんだってさ。
 影楼が設立される前からずっと、ずーっと」
そのまま口を閉じてただ眺めている二人の間にまた一陣の風が吹き、さっと花びらが舞っていく。
「さ、立ってるのもあれだから 始めちゃおうよ」

「そうなんだ… うん 大きくて立派な樹…」
つい花ばかり見ていたがそれを支える樹齢を重ねた太い幹や枝ぶりにも目をやる。
繋いでいた手を離し時雨と一緒に桜の根元にビニールシートを敷き、片腕で抱えてきた和菓子の重箱と盃を並べて一年ぶりの花見の宴を始める。

時雨は一升瓶の栓を抜き
「どーぞ」
と、盃を咲也に手渡すとゆっくりと桜色のお酒を注いでいく。
自らの盃にも注ぎ入れれば
「はい、かんぱーい」
カチンと杯を当てて一口含んでみる。
口の中で広がる甘さと後からついてくるアルコールの風味が広がっていく。

「いただきます」
時雨の注いでくれたお酒。
きっと時雨のことだろう甘いとは言え上品な風味のするであろう綺麗な桜色を盃をゆっくり傾ける。
「…ん 美味しい」
すっと喉に広がる熱も心地よくて。
「このお酒だったらこのお団子食べてみて?
 きっと時雨の口に合うと思うんだけど」
重箱の中からお菓子を取り分けて時雨に手渡す。

「ん、いただきまーす」
時雨は取り分けてもらった団子を間髪入れずに口の中に頬張り舌鼓を打つ。
「ほあ、これはいい、美味しいね」
団子の甘みとアルコールの辛さが絶妙に合ったのだろうか時雨は喜んで団子にありついていく。

「昨年は僕が急に誘ったから
 有り合わせのお菓子だったけど
 時雨がみたらし団子を美味しそうに食べてたの覚えてたから…
 …この一年で時雨の好みの味付けとか…色々…わかったから…
 今年は時雨の好きそうなのを選んでおいたんだ」
この一年を思い出して色んな感情を含んだ瞳をそっと伏せて。
少し間を置くとさぁっと夜風が髪を乱す。
「…一年で色々あったね…」
手の中の桜色の液体を見つめていた瞳をそっと時雨に向ける。
『今』にたどり着いた事に感謝するような深い愛情を込めた瞳に時雨を映す。

もぐもぐと団子を平らげて、杯をあおる時雨。
「そうだよね、あの頃の僕はまだまだ冷めてたっていうか…
 あの後もひどい目に遭っちゃったからねー」
うんうんと頷きながら咲也を見返す時雨。
「咲也はちっとも変わっちゃいないや
 恥ずかしがり屋なとこも、それでいて
 ちょっとびっくりするくらいに強引なとこも」

「そう…かな…」
薄暗闇だからだろうか…
時雨の蒼い瞳をはっきりと認識できないから
たぶん時雨からも自分がどんな瞳で時雨を見ているか分からないだろうという安心感からか
じっと… いつもは出来ない時雨の顔を正面から見つめ続ける。
自分のようにテーブルマナーや作法などを叩き込まれてきた訳でもなく自由にお菓子を頬張っているはずなのにその仕草に全く不快感は感じられない。
盃を飲み干し口を離す様などどこか優雅ささえ漂うようだ。
そんな時雨をただ黙って桜色の液体に口づけながら見つめる。
『ああ これじゃ
 お花見じゃなくて時雨見だなぁ…』

「僕はたぶん変われた…はず。
 僕だって誰かを好きになれるって
 思えるようになれたから。」
薄暗闇の中でじっと蒼い瞳を咲也のほうに向ける時雨。
「馬鹿でエッチなことばっかり考えてる僕だけど
 それでも咲也が僕のことを思ってくれたから…」
と、そこで言葉をとめて時雨は恥ずかしそうに俯いて。
「な…なに言ってんだろ僕」

「そうだね… 僕も…変わったと…思うよ」
自分の忌まわしい過去や背負ってきた宿命を知っても逃げ出した自分を追ってきてここに
―――時雨のそばに引き戻してくれた。
それまで自分の片想いであっても
快楽を好む時雨の一夜の相手だとしてでも
それでもいいと…
どこかで諦めていた想いが結ばれた。
そのことが今まで生きてきた中で初めて自分を変えさせてくれた…と。
もう3ヶ月も経つのに思い出せば胸が熱くなる。
はらはらと舞い落ちる花びらが、あの日見た雪のようで…
時雨を見つめているだけで意識しなくても目に浮かんでしまう。
お酒で淡く火照りを感じる頬に夜風が気持ちがいいが、その反面盃を両手で包んでいた指先はひんやりとしていて。
桜色の液体を飲み干してそっと盃を置くと、ぬくもりを求めるように時雨の頬に手を伸ばす。
「…時雨…」
手の届く位置に近寄ると流石に時雨の蒼い瞳が認識できる。
でも今度は目をそらさずそのままじっと時雨を見つめ続ける。

「僕は、馬鹿だから…
 言葉にして咲也に伝えることはできないかもしれないけど…」
頬に触れる手を引き寄せて咲也の顔を間近に見据えると、唇をそっと重ねる。
「僕はやっぱりこっちのほうが思いを伝えやすい」
くちゅりと舌を入れて甘いアルコールの残る口内を優しく愛撫していく。

「ん… 時雨… ちゅ… ん」
じっと時雨を見つめていた目を閉じ優しい口づけを受け入れる。
甘い… しばらく舌を絡め合い、もうお酒の味は消えても、いつまでも甘いと感じる時雨の柔らかな唇や舌を味わうように吸い付く。
「…はぁ…っ」
キスだけで吐息があふれる。

「咲也… 色っぽくて素敵だ…」
咲也の細い身体を抱きしめてそのままどさりと倒れこむ。
時雨は昨年の今頃もこんなことがあったなあと思い返しながら
『今は違う、僕は咲也を愛しているんだってこと…』
と、咲也のとろける顔をいとおしそうに眺めながら再び濃厚なキスを施す。

時雨の言葉にドキリとする。
たぶん自分が一番変わったのはそこだ。
時雨はいつまでも変わらず照れ屋な自分を気に入っていることを知っている。
嘘や演技で恥ずかしがっているわけではないし
結ばれてからの方が気恥かしさが増したくらいだ。
そんな自分が『色気』を帯びるように変わってしまったこと。
咲也はなんとなくそのことを時雨に知られたくなくて…
自分が時雨を見つめる目を…
見られたくなくて伏せてきた。
情事の最中なら時雨もうっとりと潤むような蒼い瞳で見つめてくる。
でも自分は時雨を見る時、常にそんな目をしていることに気づいていた。
それが一番変わったこと。
「ちゅ… 時雨 んん…」
濃厚なキスに溺れながら時雨の首に腕を回しぎゅっと抱き返す。

「ん、ちゅう…咲也…んあっ」
咲也ととろけるような接吻を楽しんだ後、時雨は咲也をまたぎゅっと抱きしめる。
ふだんならそのまま咲也との行為を楽しむはずなのだが時雨はぎゅっと咲也のぬくもりをずっと感じていたい、そんなふうにひしと抱きしめていた。

「ん… 時雨…」
はぁっと大きく息を吐きしっかりと自分を抱きしめる時雨の腕の中でそのぬくもりに気持ちよさそうに目を閉じたまま微笑む。
やっと自分のものになった暖かな時雨の腕の中。
そっと目を開けると一年前と変わらない時雨の肩ごしの満開の桜。
「…ずっと このままでも…」
そう呟いて目を閉じる。

「咲也… 僕は…」
時雨はぎゅっと咲也を抱きしめながら呟いた。
その声は心なしか震えているように自分でも感じられた。
時雨は一年前の自分と変わったと実感することで気づいた。
「咲也… 僕は」

「…ん」
耳元で囁かれる時雨の声。
いつものように甘やかに自分の名前を呼ぶ声とは違っているのは感じ取れた。
時雨の腕の中で目を閉じたまま言葉の先を黙って待つ。

「こんなに好きだって、わかっているから…怖いんだ。
咲也もずっとこんな気持ちだったんだなって…」
時雨は咲也の顔を見つめる。
それは先ほどの情欲あふれる表情とは少し違っていて。
何かに切なげなそんな顔だ。
「こうやって触れていないと
 どこかにいっちゃいそうで怖いんだ。
 咲也もずっとこんな気持ちだったのかな」
――あの頃の僕は人を好きになるなんて捨てていたから咲也気持ちなんかちっとも分からなかった、でも
「好きになるって
 こんなにも怖かったんだね
 切なかったんだね…
 …今分かった気がする」

「時雨…」
時雨の言葉にクスリと微笑む。
「うん 怖いね…
 こんなことをしたら嫌われるんじゃないか
 こんなことを言ったら疎まれるんじゃないか
 いつもそんなことが怖くて…
 今こうやってぬくもりを確かめあえているのに
 腕を離したらすぐに夜風に冷えてしまう…
 そのくらい儚い…
 だから離したくない
 でもぎゅっと力を込めたら
 今度はこの腕の中で壊してしまいそうで…」
一旦言葉を区切り時雨の背中に回していた腕を解き先ほどのように時雨の両頬を包むように持ち上げて蒼い瞳を見上げる。
「だから… 何回でも 毎日でも
 激しい情事でなくていい…
 ただ時雨と手を繋いでお互いのぬくもりを確かめ合う…
 軽く唇に触れる…
 そんなことが嬉しいんだよ…」

「そっか…そうだよね」
時雨は蒼い瞳を伏せる。
咲也はきっと辛かったんだろう。
いや辛かったに違いない。
ずっと好きな相手の心をつかめなくて。
それでもずっと僕のことを思い続けていたんだ。
時雨の心がぎゅっと締め付けられるような気がした。
「咲也 こんなこと僕が言うのも…なんだけどさ」
時雨は咲也に告げる。
「お互い一緒に居なくても
 ずっとは心は一緒だってことを
 いつでも確認しあいたいんだ…
 あ、でもどうすればいいのかな」
頭をかいて照れくさそうに言ってみる時雨。

「ずっと心は一緒… うん…」
時雨の言葉に涙が浮かびそうになるのをこらえて微笑みを絶やさぬまま見つめながら考える。
「…接客に…影響しちゃうようなことでも…いい?
 身体…商売道具に…
 僕たちがお互いのものだって…
 秘密の『証』を…刻んでも…いい?」
頬を包んでいた手をするりと時雨の首筋に這わせる。

「証… うん 全然構わないよ」
時雨は咲也の言葉にこくりと頷いた。
今までの時雨なら商品である自分の身体を傷つけるなんて想像さえしなかっただろう。
でも今は違った。
この身体に咲也のかけらが刻みこまれるなら、本望だとも思える。
「うん… どこに付けたらいい?」

「んー… こうやって抱きしめ合った時に
 同時に唇の触れるところ…」
ぎゅっと時雨の頭を胸に抱き寄せると時雨の唇が左の鎖骨に触れる。
そのまま首を曲げ自分の唇を時雨に押し当てると時雨の左の首筋に触れる。
「ここでいい?」

「ん、いいよ…
 でも痕を付けるってことはやっぱり…
 痛いよね?」
時雨は咲也のことが心配になった。
同時に咲也の身体をまがいなりにも傷つけてしまうことに不安を覚える時雨。
「大丈夫?」

「時雨と一緒なら…」
時雨の首筋に顔を埋めたまま囁く。
「身体の痛みなんて…気にならない
 心が痛いほうがずっと辛い… 時雨…」
これから血を流すことになるであろう時雨の首筋を優しく舐める。
「刻む瞬間は痛いと思うけど…
 痕に残ったそれを見るたびに
 きっと心は満たされるから…」

「ん、わかった…じゃあお願い…」
ぎゅっと強く強く咲也を抱き寄せて『来るべき痛み』にたえるべくぎゅっと瞳を閉じる。
――咲也の心の痛みに比べたら…
それを満たすというのなら僕は喜んでこの痛みを受け入れよう。

「ん… 時雨も痛かったら遠慮せずに…僕の鎖骨に噛み付いて…
 かぷ んん…」
白く柔らかな時雨の首筋に噛み付きぐっと力を込める。
歯で皮膚を噛み切る…
刃物で切り傷をつけるより激しい痛みだろう。
でも時雨と一緒なら…
時雨が与えてくれるものならば喜んで受け入れよう。

「く…いっ…ああ、あ、ぐ」
首筋に鈍い痛み。
それも半端なものじゃない。
声を抑えられないほどの痛みが時雨を苛んだ。
苦々しい表情を浮かべる時雨も、咲也の鎖骨に歯を立てて食い込ませていく。
咲也の身体がひくりと跳ねた。
でも咲也の柔らかな身体はちょっとやそっとじゃ傷がつかなかった。
――咲也ごめん
と、一思いに噛み締めれば鉄くさい咲也の血液が口の中に広がるのが感じられる。

「んぁッ んんっ く…っうぁぁぁ ぁああッ」
時雨の首筋を噛んだままくぐもった悲鳴をあげる。
時雨の歯が肌を突き破り肉が裂け骨に当たらんとするばかりに食い込んでいるように感じられる。
実際はそんな深い傷ではないのだろうけれど…
身体を突き抜ける痛みは想像以上だった。
痛みを分かち合うように時雨の首筋を噛む歯に力を込める。
プツっと音もなく歯が皮膚に埋まった瞬間溢れ出る時雨の真紅の血をごくりと飲み干す。
―――ゆっくり歯を抜いて…
出来上がった『証』を確かめるように血が止まるまで吸い上げ舐め続ける。

「ごめん…痛かった、よね…大丈夫?」
咲也の悲鳴に時雨は泣き出しそうになりながらも鎖骨の『証』を舐めて出血を止めようとする。
咲也はきっと泣いているのだろう。
痛みではなく、それ以上に時雨のことを思っているのだから。
自分が傷つくよりもずっと苦しいのだろう。

「はぁ… は… ちゅ 平気… ちゅぅ」
時雨の首筋から溢れ出る血を舐めながら頬を涙が伝う。
鎖骨の熱いほどの痛みのせいもあるが
男娼としてここにあることが一番の誇りであるはずの時雨が商品である身体に自分から傷をつけること…
自分はいい 時雨のものでいられるなら
時雨の付けてくれた傷が時雨のものである証なら心は全く痛まない。
時雨に傷をつけてしまった…
今までずっと恐れていたことをしてしまったんじゃないか
それが怖かった。

「咲也…」
時雨は証に吸い付いたまま咲也のすすり泣く声を聞いた。
「咲也…僕は、僕は嬉しい」
耳元で咲也に優しく語りかけた。
「僕の身体に残るものなんて、せいぜいお客様のキスマークだったり
 激しい接客のあとの痣だったりで…
 一瞬の快楽さえも、消えてしまえば虚しさばかりだった」
時雨もいつの間にか涙を流していた。
「誰かに必要とされていて
 誰かに愛されていて…
 ぐず… その証がいまここにある
 それが嬉しい…」

「時雨…」
時雨の言葉に涙が溢れて止まらない。
嬉しい…
言葉通り身体の傷の痛みなんて気にならなくなっていく。
ずっと心が一緒だと…
いつでも確かめられるものを手に入れた。
やっと時雨の首筋に血の味が薄くなり唇を離す。
痛みに硬直するように固く抱き合っていた腕をゆっくりと緩め時雨の顔を見上げるように横たわる。
「愛してる 時雨…」

「咲也…来年もその次も
 ずっとこの桜の下でお花見しよう …絶対だよ」
時雨は咲也の指を絡ませて咲也と約束する。
「咲也、絶対だよ…」

「ん… 時雨…」
見上げた時雨は蒼い瞳をまだ涙で潤ませながらも幸せそうに微笑んでいて。
白い首筋に真紅の『証』が目を引く。
もしかしたらそれは今まで以上に時雨の身体を誰からも扇情的に見せるかもしれない。
そんなことを考えながら満開の桜の下で微笑み自分を見つめる時雨を見つめ返す。
「愛してる 時雨…」




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