第三十二話 「大人の想い」
第三十二話
「大人の想い」





自分の出生の秘密を明かし精神的疲労からぐったりと時雨の腕の中で動かなくなってしまった咲也を旦那がボーイの子を呼び咲也の部屋に運ばせる。
二宮にも今日すぐに身請け金を用意できるわけではないならお引き取り願うと話し二宮もごねるわけでもなく帰っていった。

「…さて…と」
旦那がその場に残った女将、一条様、時雨を見渡し。
とりあえず時雨を落ち着かせるようにぽんぽんと髪をなで時雨の部屋へ向かう。

時雨も、まだ動揺がおさまらずしばらく顔を伏したまま赤い眼をこする。
「旦那様…女将さん…一条様…あの
 申し訳ございませんでした」
時雨は細い声で、謝罪を述べる。
時雨の取り乱しようは、かつて誰も見たことがないだろう。
あの一条様や旦那でさえなりふり構わず咲也の元へ向かっていったのだから。
咲也が身請けされる、喜ぶべきことを時雨は公然と否定したのだから。

「…落ち着いたかい?」
時雨を咎めるでもなく女将の淹れたお茶を差し出し時雨の様子を見る。
時雨と咲也のように仲の良い男娼の片割れだけが身請けされて、生木を割くように別れさせてしまったことは一度や二度ではない旦那と女将は、時雨の行動を驚くでもなく受け入れていた。
一条様も初めて時雨に抵抗されたが怒るわけでもなく、繁華街で初めて会った時の感情の薄くなっていた時雨が人間らしく感情をあらわにできるようになったことをいっそ喜んでいるようで。

「はい…今は…」
と、力なく答える時雨。
特にお叱りもない様子に少し拍子抜けしてしまったという感じも見せている。
今、時雨の脳裏にはぐるぐると咲也の顔が見え隠れしては消えていく。
何故だろう、何故僕はあそこまで必死だったのだろう。
いつの日か誰だって遊郭を離れてしまうというのに。
時雨は、ふと口を開く。
「咲也は、二宮様に拾われた方が…幸せなんでしょうか…」

先程まであれだけ必死に咲也を引き止めていた時雨の口から全く逆の言葉が出て旦那は呆れたような声で聞き返す。
「そう思っているなら何故引き止めたんだい?」
まだ自分の気持ちに素直になれない時雨を大人たちは見透かしていた。
本当にそう思っていたなら泣いて引き止めるなど時雨らしくない行動をするわけがないと。

「わからないんです。
 …でも、渡しちゃだめだ、渡しちゃだめだって。
そう思った瞬間には…」
自分でも、何故だかよくわからなかった。
でも、心ではきっと『咲也はきっと幸せになれない』と思っていた。
今もそうかもしれない。
あれが本当の気持ちかというと、もっと別の、もっと大事なことが突き動かしたのかもしれない。
「ただ…咲也がいなくなることは考えられないんです。
 ずっと…寄り添ってきたから…」

時雨の横に座る一条様が優しく時雨の髪を撫でる。
何かを言うわけではなくただ優しく。
人間らしい感情を、年相応の少年らしい感情を持った時雨を褒めるように。
旦那もいつものような優しい声で時雨の言葉に応えてくれる。
「そうだね。
 きっと咲也もお前と居たいと思っているだろうね。
 だから二宮様と行っても幸せにはなれないだろう…」

「でも、もう僕は拒まれた。
 咲也は僕のためなら身をなげうってでも守るような子だから…もう」
歯がゆい、認めたくないと言う気持ちで顔をうつむかせる。
ベッドのシーツを握る手が悔しさを物語る。
同意と金さえあれば、身請けが成立する『ルール』、時雨はそれを幾度と見てきたし、それを止めることはできない。
それが『ルール』であり、時雨は無力を嘆く。

旦那がふうっと大きくため息を吐く。
「咲也がお前を想っているのは周りから見ていればよく分かる。
 …まさか咲也自身から時雨を『その程度』の気持ちだったと言うとはね…。
 咲也が同意しなければいくらでもお断りできるんだがねぇ…」
女将も頷く。
「あんな状態で落ち着いて考えられるはずありませんよ。
 売り言葉に買い言葉…
 もっと時間をかけて考えさせてからでも遅くありませんよ。
 とりあえず二宮様も引いてくださったわけですし」
旦那も女将もあんな状態の咲也が本気で身請けを望んでいないだろうと踏んでいた。

「僕は……どうすれば……」
時雨は旦那や女将の言葉に顔を上げて問いかける。
咲也の心は、もう完全に『知られてしまった』というその一点で縛られてしまっている。
僕は咲也が何者でも関係がないのに、ただ自分で咲也自身の首を締めてしまっているようにも感じてはいる。
「どうすればいいんでしょうか…
 咲也は今…自分の運命を呪いのように思い込んで…」

時雨の問いに大人たちは顔を見合わせる。
そして旦那がゆっくりと答える。
「こんな商売を長くやっていると見えてくるんだよ…『縁』というやつがね。
 手に取るようにはっきりと。
 だから『織原咲也』を知らないだろうお前を咲也の『教育係』にした。
 予想通りお前は咲也を知らず咲也もお前に好意を抱いた。
 良くも悪くも私たちからしたら二人のことは『予想通り』だったんだよ」
まるで仕組んで二人を近寄らせたようで申し訳なさそうに時雨を見つめる。
「そして今 全てを知った時雨がどういう行動に出るかも分かっていた…。
 まさか二宮様の口からこんな風に『過去』をバラされてしまうとは思っていなかったが…
 いつか全てを知った時雨を咲也はどうするかと案じていたが… ふぅ…」
困ったようにため息を繰り返す。

「…えっ」
時雨は旦那の言葉に思わず声を漏らす。
何とはなしに出逢ったことが、偶然ではなくある程度の思惑を孕んでいたことを。
でもそれが咲也と、本来交わるはずもない運命の繋がりを生んだ。
咲也と暮らしてきた日常は、いつしか時雨の心を揺り動かしてきたのだ。
「……あっ…」
時雨は少しずつ何かに気づき始める。
『教育』してきたあの日から、いつしか自分がもち得なかった感情を抱いていることに

「まだ『全て』ではありませんよ」
女将が続ける。
「二宮様から聞かされた『過去』は一方的な『陰』もの。
 私たちが知っている咲也自身も無意識の『陽』の『咲也の効果』だってあります。
 本当に『全て』を知るには咲也と落ち着いて一から話し合うしかないでしょう。
 今は咲也本人が自分を『陰』だ『呪い』だと思い込んでしまっていますから咲也と居て良かったことを思い出させてあげるのが時雨のできることじゃないかしら」
始まりは大人の仕組んだ出逢いであっても、それが今では『良縁』になっていた二人の意思を尊重するように時雨を見つめ。
「できますか?」
と、難しいことを承知で時雨に問う。

『陰』だの『陽』だの、時雨には、それが一体なんのことなのか理解しているわけではない。
ただひとつ言えることは時雨にとってそういうことは取るに足らないことなのだ。
咲也が何者であろうが
―咲也にも話したことだが―
時雨にはどうでもよいこと。
ただ咲也と一緒に居たことが、多分一番の幸運であるはずだと感じていたから。
「とにかく…僕の想いを伝えられればいい」
時雨の顔が普段見られないような真剣身を帯びる。
「咲也を引き止める、それだけの理由があれば充分ですから」

突然なにかが破裂したかのような音が耳をつんざく。
皆が一斉にそちらを見やると、そこには息を荒げた柚槻の姿とひしゃげたドア。
焦燥と不安が入り雑じった表情で口を開く。
「旦那…! やべぇ 咲也が居ねぇ!」

「なんだって!?」
柚槻の言葉にその場にいた全員が立ち上がる。




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