第九話 「悪夢」

第九話
「悪夢」





休日の夜は、普段のような娼妓たちの猫なで声も無く、しんしんと静かに夜が流れていく。
時雨の部屋のダブルベッドで、咲也と寄り添うように眠りについていた時雨。



――ゴミが散乱し荒れ果てた部屋。
時雨の部屋じゃない…。
ぼんやりともやがかかった視界は…
紛れもなく『あの』空間だった。
ぐったりと壁にもたれかかっている自分…
身体は鈍い痛みに悲鳴をあげていて………
『アイツがくる』
……タバコ臭い手で、胸ぐらを掴んで。
やせ細った体を揺らして…
顔は…ぼんやりとしか見えない――



静かに寝息を立てる咲也とは対照的に、びっしょりと汗をかいて…
ときおり唸り声のような寝言を吐いて。

時雨にくっついて時雨の手のぬくもりを握りながら、すやすやと眠っていると、突然その手が払い除けられるように時雨が腕を振り回す。
その動きと時雨の低い唸り声で目を覚ます。
「…時雨?」
眠そうに目を擦りながら小さな声で時雨を呼んでみれば、まだ春先だというのに寝汗をかいてもがくように腕や脚を動かしていて。
聞き取れない声で寝言を零し、明らかに悪い夢でも見てうなされているのだろう。
これは起こしてあげた方がいいと判断して。
「時雨っ 大丈夫? 時雨…っ」
ペチペチと時雨の頬を軽く叩いて。
それでも起きない時雨の身体を大きく揺さぶる。



――やせ細った身体では抵抗することすらままならない。
なすがままに揺さぶられドンと壁に押し付けられる。
うつろな目をしていたのだろうかアイツの鼻から上は良く見えなくて…
それでも、口角を釣り上げて歪めて…
醜く蔑むような笑いをしているのは良く見えた。
そして挙げられる拳…ああ、また…――



「ひぃっ うわあああっ……!」
拳が振り下ろされるすんでの所で、現へと呼び戻される。
悲鳴にも似た声で飛び起き目を見開いて肩で息をする。
そして焦りを隠せないままキョロキョロと辺りを見回して。

「時雨…っ」
悲鳴をあげて飛び起きた時雨をそっと抱きしめて。
「どうしたの…? 怖い夢でも見ちゃった? …もう大丈夫だよ…」
現実に戻ったことを確かめるように荒い息を吐きながら辺りを見回している時雨の髪を撫でて。
「うわ… すごい汗…」
額に張り付いた髪の毛を撫で上げて、額に優しくキスをする。
「ちゅ… 時雨…落ち着いた…?」

「……はぁっ…… はぁっ…… 咲…也?」
恐慌状態にあった時雨であったが、咲也の声にそちらの方に目をやれば少し落ち着いたのか肩をがっくりと落とし深く息を吐く。
額に玉のように浮き出た汗を拭い片手で頭を抱えて。
「……くそ、めちゃくちゃな夢だ…」
咲也のキスにもまともに応えることも出来ずに、無言で。

「…大丈夫…? すごくうなされて…暴れてたけど…」
心配そうに時雨の髪を撫でながら、時雨が落ち着くのを待つ。
「汗…かいてるし 喉も…痛いでしょ? 何か飲む…?」
無言になってしまった時雨を気遣って何かしてあげなきゃと世話を焼く。
「シャツ…汗だくで…気持ち悪くない? 着替える…?」

「いい… ちょっと黙ってて…」
心配そうに時雨に気を遣う咲也。
胸くそが悪くなるような夢を見て気分が落ち着かない時雨にとって、さらに気持ちを萎えさせるもので…
抱きしめる咲也を手でトンと突き放して。
「……」
いつまでも過去は自分を縛り続ける。
腹立たしい、呪いたくなるような気持ちで胸が苦しい。
もう少し落ち着くまで…
…何もしたくない。

「…うん 何かあったら…言ってね?」
時雨に冷たく突き放されても気にしない風に向い合ってそっと座って時雨を見守る。
「…」
時雨はお客様からSMのようなプレイを要求されてもこなしてしまう程なのにこんなに怖がって…
まるで咲也まで時雨に危害を与えると思っているかのように、時雨が自分の殻に篭ってしまうなんて…
一体何があったんだろう…?…
心配と不安と同時に時雨について知りたいという気持ちが沸き上がってくるのを抑えてただ見守る。

コツコツと時計の針の音だけが響くだけの静寂。
頭を抱えたまましばらく無言を続けていた時雨。
数分が気の遠くなるように長くゆっくり流れるうちにようやく顔をあげて。
「……嫌な、夢…… 何回目だろ…」
天井を仰いで鬱屈した表情を浮かべる。
誰に言うのでもなく独り言をぼそりと呟いて布団を握りしめる。

「…ん… こういうこと…よくあるの…?」
やっと口を開いてくれた時雨に優しく話しかけ布団を握りしめてまだ震えている手に手を重ねて。
「どんな…夢…?」
聞いていいのだろうかと迷いながらも、独占欲と好奇心が勝ってつい聞いてしまった。

こういう夢はもう幾度となく見てきた。
…が、わざわざぶり返すように聞いてくる咲也に少し頭に血が登る。
ここは自制心で、怒ることはないがかなり不機嫌になって。
「…聞くの? 聞きたいの?」
自分の中では忘れてしまいたいことをなぜこうも掘り返すのだろうか…
かなりなげやりに返答して。

「ご…ごめんなさい… 悪い夢…なんて…思い出したく …ない…よね…」
時雨の機嫌を明らかに損ねたと感じて謝る。
「でも…今夜は… 僕が起こしたけど… いつも…あんなふうに… 朝までうなされてるのかなって… 思ったら…心配になっちゃって…」
おどおどと『何を言っても言い訳だ』と分かりながらも言葉を続ける。
「時雨を…苦しませるような夢から… 支えられてあげられないかなって… ごめんね…」

オロオロと焦る咲也に今回ばかりはフォローするわけでもなく、ぷいとそっぽを向いてしまう。
咲也の純粋さは時に知らず知らずのうちに人を傷つけることを知っているのだろうか…
必死に謝る咲也にとくに反応せずに不意に言葉を出す。
「咲也は… 本当に僕のこと好きなの? 本当に?」

突然の質問に動揺することなくきっぱりと答える。
「うん… 好きだよ 本当に好き」
そっぽを向いてしまった時雨には見えないだろうが真摯な瞳でじっと時雨を見つめて。
「好きだから…心配で 僕じゃ頼りないかもしれないけど… 時雨が何かに悩んでるなら… 助けてあげたい…」

真っ直ぐな言葉にようやく咲也の方をゆっくりと向いて…
少し躊躇してから…ゆっくりと口を開く。
「……昔の夢を見てた… 義理の父さんと 母さんの… 夢…」
ゆっくりとしかし僅かに身体が震えそれでも言葉を続ける。

「…うん…」
こちらを向いてくれた時雨に安心して少し微笑み、時雨が話しやすいように重ねた手を摩ってゆっくりと時雨の言葉を待つ。

咲也の手のぬくもりを感じながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「僕は… 父さん… いやアイツに… 虐待されてた… それが夢で出てきて」
無意識に咲也の手を握りしめ。
「今日は殴られるとこだった… くそっ…」
唇を噛みしめて悔しそうにする。
「心底楽しそうに見てくるあの顔… 今でも焼きついてる…」

「……」
自分の家庭では想像だに出来ない環境で時雨が育ってきたことが分かって、悔しそうにしながらも震えが止まらないほどの恐怖だったのだろうと、握ってきた手を強く握り返す。
「…簡単に…『忘れて』… なんて言えない…ね」
苦しむ時雨を見るのは自分のことのように苦しいが『同情』するには自分は幸福に育ちすぎていて、時雨に申し訳なく思った。

「もういつからだか… 覚えてない、母さんが離婚して アイツが家に上がり込んでから 全てがおかしくなった。 学校にも行かせてもらえなくなった。 毎日毎日、置物のような生活で 気が付けばあいつに殴られてた… …ような気がする…」
トラウマが、呼び戻されるたびに時雨の額から脂汗が流れて…
「僕は助けを求めた… 何回も辺り構わず叫んでた」

「…っ」
時雨の苦々しい言葉を聞き心の底から暗い気持ちが沸き上がってくる。
『同情』『怒り』『困惑』
…なんと名付けていいのか分からない気持ちでいっぱいになり時雨の手を離し小さく震える肩を抱きしめる。
「…お母さんは? 知らなかったの…?」
この言葉が禁句だったと後で激しく後悔することになることを聞いてしまった。

『母さん』という言葉に抱きついてくる咲也を振り払って、まるで獣のように威嚇するように距離を取る。
「母さんは… 母さんはっ! 何もしなかった! 何も!」
時雨の顔に現れるのは怒りか、絶望か、嫉妬か普段の時雨では有り得ないまさに怒号だった。
「全て知っていた… なのに… それなのに!」
身体を感情で震わせて小さな拳でドンとベッドを叩く。

「…!!」
『知っていたのに助けてくれなかった』という衝撃的な言葉に息を飲む。
同時に怒りを露わにする時雨に払い除けられて怒りに震える時雨を見つめるしか出来なくて…

普段の透き通るような蒼い瞳は今は濁りドロドロとした感情を滲ませていて…
「それでも…  母さんが家に居てくれるだけで良かった。 助けてくれなかった…でも いつか救ってくれる。僕は信じてた。 それだけが… でもっ!」
胸に溜め込んでいたものを吐き出すように吐露し。
「母さんがとうとう居なくなった。その時から… 本当の地獄だった…」

触れてはいけない…
気付いてると思わせてはいけない…
これはきっと時雨が一番知られたくないことだ…と頭の中で警鐘が鳴り響く。
「…時雨…」
一縷の望みを母親に見ていた時雨が絶望の淵に立たされた…
時雨がこんなになる程のこと…

「母さんの居ない家には アイツと僕しか居なくなった。 そしたらどうなったと思う?」
半ばヤケクソ気味に薄く笑って、口を開く。
「アイツは… 母さんの代わりに 性欲の捌け口を… 僕に向けてきた…」
時雨の顔が歪む、今にも泣きそうなそれでも屈辱にまみれて怒りを隠せない…
形容しようの無い表情になる。
「服を引き裂かれて… 暴れないように抑えつけられてっ …喚かないように口を塞がれて!」
もう言葉が溢れ出して止まらない。
なぜ自分は救われないのか運命を呪うように言葉を紡ぐ。

「時雨っ もういい…から…っ」
ああ…やっぱりそうだったんだ…と、時雨にそれを言わせてしまったことを後悔し。
これ以上時雨が自分の言葉で自分を傷つけていく様を見たくないと振り払われてもいいと時雨を強く抱きしめる。
「ごめんね… 時雨… …ごめんなさい…」

咲也が見かねて時雨を止めにかかる、しかし手遅れだ。
咲也は好奇心から時雨の傷を抉ってしまったから…
『好き』という言葉だけが先走って全て受け止めるだけ強くなかったから…
「なんで…咲也…は、僕のこと… 知りたかったんじゃなかったの? 『好き』だから… その言葉を『信じて』……たのに」
時雨の瞳が急速に冷めていく。

「…時雨…っ 違… 好きだよ でも…」
確かに時雨のことを知りたかった。
好奇心と言われてしまえばそうかもしれない。
でもそれは純粋に『好きな人のことを全部知りたい』という気持ちで…
「時雨の話… 聞いても…いいの? 僕には時雨が…自分を自分で 罵ってるように聞こえて… そんな時雨を見たくなかったから…」
時雨を抱きしめる腕が震える。

咲也はなんとか繕おうとするももはや言葉は時雨に響かない。
「もう…離して… もう分かったから」
抱きしめ震える咲也から逃れるように離れ、薄く笑う。
「僕はこんなに穢れてるんだ。 やっぱり誰かを『好き』になるなんて… 出来ないし…分からない。 ね、こんな僕を見たくないならもう見なくていいし、見せたくもない。 それでも『好き』なら別にいいよ。 嬉しいけど多分… 理解出来ないから」
ベッドから降りて咲也に背を向けて。

「時雨っ 待って…っ」
自分を『信じて』話してくれたのに…
僕が全部受け止めなきゃ時雨はいつまでもこの悪夢にうなされ続けるんだ。
そんなの酷すぎる…
『本当』に『好き』だからこそ時雨を救いたい。
どんなに深い心の闇だとしても時雨にとって聞かれたくないことでも。
全部聞き出して『全部』を受け止めても『好き』で居る自信はあった。
ただ口下手な咲也にはそれをどうやって時雨に伝えればいいのか言葉が浮かばず…
しばらく無言で背を向けた時雨の手を引いて離さないで居ることしかできなくて。

「今は… 一人にさせて… 仕事の準備もしないといけないし…」
気が付けばもう空も白み始めていて。
「……」
『好き』とは一体なんなのだろう。
結局はそれを信じて救われない僕にはそれしかない。
「クレープ…ありがと、美味しかったよ」
こちらも言葉に詰まってほんのひと欠片の優しさを咲也にかけて部屋に後にする。

「時雨っ …っ」
強く捕まえていたつもりだった手をスルリと解かれ、まるでこれから先には今日のような楽しい時間を共有することが無いかのような言葉を残して、時雨は部屋を出て行ってしまった。
「…しぐ…れ… ふ…ぅ…」
時雨の後ろ姿が見えなくなると、自分に泣く資格なんてないのに、辛かったのは時雨の方なのに、時雨の支えになりたかったのに…
色々な感情がごちゃごちゃになって涙となって頬を伝う。

パタリと部屋のドアを閉めてそのまま廊下に立ち尽くす時雨。
今は…心の整理がつかない。
こんな状態で自分も咲也も仕事ができるのだろうか…。
壁に拳をぶつけむしゃくしゃした気持ちを晴らして。
「咲也もこんな程度なのかな…」
深くため息をついて、時雨はシャワー室へと歩きだす…





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